継承運動に欠かせない書き言葉・散文運動のさらなる発展を!

2014.9.18
2014.10.17訂正

比嘉 清

はじめに

ユネスコ等国際機関は相変わらず、琉球語(沖縄語)は危機的であると指摘し続けています。世界に向けて訴え、国際世論を動かすという意味では意義があります。

だが、地元沖縄にとっては功罪あります。功の部分は沖縄人をして、沖縄語について考えさせるとう意味があるでしょう。

不具合ば次の通りです。

うちなあぐちについては、これまで幾度となくその消滅の危機が指摘されながら、地元の多くの話者にとって、「沖縄語の復興」というのは、@首里語遍重であること、A言語学中心であると受け止められているからです。現に、地方の話者でさえも、どうせ危機的なら、自らの祖先代々の言葉よりも、せめて「首里語だけでも残そう」という気にさせています。その結果、沖縄語はメジャーな言語ほどの方言群を有しながら、激減の一途をたどっています。継承方法も特定の「指導者」を選別することによって、「親から子へ」、「地域の中で」という話者による自然な継承方法も失われ、或いは切り捨てられ、うちなあぐちは「サロン言葉化」しつつあります。

それが、特定の「マイナーな中央語」の継承と引き替えに現象であるなら、うちなあぐちにとって、多くの方言群を失うかもしれないという別の危機を招くことになります。方言の多様性はその地方・国の歴史の古さに比例すると言われています。現に沖縄語の音韻・語彙・言い回しには多くの新古が混在している事から沖縄語は歴史的変遷および地理的広がりが立体的に把握できる位置にあり、沖縄語を一筋縄ではない奥深いものにしている大きな要因ともなっています。何より言語標準的な書き言葉等の産みの親でもあります。

多様な地方語を失うことは言語の土台を失うことを意味します。その結果として、沖縄語は単なる形式的で平板な機械語になってしまうでしょう。

 言語の継承というものは、すべての母親、父親、祖父母そして地域の普通の人々が言語学的知識無しで行なわれるのが自然なのです。誰も彼らに言語学の知識を要求しません。言語学中心の継承こそ不自然なのです。

「沖縄語の危機」を叫ぶなら、そうした実態迄言及する必要があります。

 

うちなあぐちを真に後世に引き継いでいく方法には

大きく分けると次の二通りあるでしょう。

1.一つは、「発音を正しく固定して残す」という方法です。この方法だと、多数の方言がほぼ一つに纏められてしまうことになります。文字を持たないマイナーな「危機言語」に適応される場合に多いようです。ハワイ語やアイヌ語等、口承されてきた言語がその例になるでしょう。文学的遺産がないことなどから、言語学を中心とした継承活動が行われがちです。

2.その二つは、文学など創作活動等を通して、書き言葉を主として残していく方法です。メジャーで支配的な言語で行われている方法です。多くは、独自の文字か借用文字[1]を持ち、古くから韻文及び散文活動の実績のある言語がそれに該当するでしょう。日本語や英語等メジャーな言語がそれに該当します。そうした言語においては意識するしないにかかわらず話者一人一人が継承者です。国語の教師だけなく、すべての教育者、新聞記者、雑誌記者、文学者、広告・宣伝を担当する者、業務日誌を書く職員、つまり日々その言語を使う人、作文する人すべてが継承者なのです。どこからともなく、聞かれる「ちゃんとした指導者が必要」等というキーワードに惑わされてはなりません。あなたが話者なら十分その指導者の一人です。

 

沖縄語の場合の継承方法

 さて、うちなあぐちは古くからある言語で、日本語文字を借用し、「おもろさうし」、「組踊」、「琉歌」、「民謡」等の書く言語活動を積み重ねてきた実績があります。方言が多様にあることは、沖縄語が古くからあった証拠です。

 沖縄語のように古くから存在し、多数の方言群を持つ言語で且つ文字による言語活動(韻文及び散文)の実績のある言語は、「言語学への丸投げ」でなはなく、当然、現代のメジャーな言語と同じような継承活動を適用するのが望ましいでしょう。

 

上の二つの継承方法を沖縄語に適用していくことを検証すれば、概ね次の通りになるかも知れません。

1.言語学的発音優先主義で話し言葉を中心とする継承する場合

イ、主な方言である首里語中心に集中的に残すという活動に陥り易く、他の方言を放置若しくは滅亡させる結果を招き易いかも知れません。

ロ、時間と共に語彙や発音が変化していく速度が速いでしょう。長い目でみれば、言語保存にとって寧ろ、逆の結果になります。現に、うちなあぐちの話し言葉においては、日本語語彙が多数取り込まれており、日本語との差異はどんどん縮まってきています。特に琉球漢音の運用についてはその衰退は著しく壊滅的ですらあります。

2.話し言葉と書き言葉を車の両輪と位置づけるが、特に書き言葉活動に主眼をおいて継承していく方法(メジャーな言語の継承法式)

イ、話し言葉は、会話が通じればよいので、厳密なものとなりにくいが、書き言葉の場合は、その実践過程において、語彙を探したり、場合によっては、地方に埋もれていた語彙を取り込んだりするようになり、結果的に語彙と言い回しが豊富になります。書き物として固定されるのでますので、言語の変化する速度も極めて緩慢になります。また書き言葉は万人に読まれることを想定することから、余所行きの言葉として、言葉を選らんで書いている内に(つまり実践を通して)、言語は書き手が意識する、しないに係わらず、次第にその形式が整っていくものです。良くも悪くも、いずれはそれが標準的になり、または統一的に成長していきます。(明治初期の日本文学の文体をみれば、形式化・統一化していく、様子が分かります。)

ロ、そして、きたるべき書き言葉の確立は、自らの言語に多大な自信を抱かせ、独立している言語であるという意識が高まります。相乗的に、ますます自らの書き言葉に磨きをかける活動が活発になります。その結果、沖縄語を独立言語として強靭な言語に仕立あげることが可能になるわけです。

結語

 したがって、次のようなことがいえます。

沖縄語のおかれている現状から推察すると、多くの話者は既に日本語を獲得していることもあって、自らの地域の言語(方言)の存亡に、深刻な興味を抱いているわけではない可能性が高く、否、既に抵抗力を失っているとも考えられます。こうした情況下では、「どうせ滅びる運命なら、せめて、首里語だけでも残していこうという」気になってしまいがちです。実際に、私的経験からも地方語の話者にもそういう傾向が強くみられます。

こうした否定的現状においてでも、その継承方法の選択さえ間違えなければ、沖縄語を有効に継承していく道はぐんと広がります。

話者はいまだに数十万人もおり(勿論圧倒的多数派は地方語の話者です)、沖縄語には、文学的文献等はメジャーな言語に匹敵しないまでも歴史的蓄積があり、他の文字を持たない危機言語のそれとは様相を全く異にしています。

 「沖縄語は危機言語である」とか「地域が狭い」というキーワードに惑わされて、自らの地域語、親からの言語を切り捨ててしまうことほど愚かなことはありません。地方語はその言語の生みの親(あひゃあ)なのです。地方人はもっと自らの言語と自分自身の方言に誇りと自信を持つべきです。

あなたの言語・方言は沖縄語の原点そのものなのです。

以上



[1] ラテン語の後継語(イタリア語等のラテン系諸語)以外の西欧諸語はローマ文字(アルファベット)を借用しているとも看做すこともできます。