■独立言語としての琉球語(うちなあぐち)表記論  トップページ
2006年11月21日訂正  比嘉 清(著書「実践うちなあぐち教本」、「遥かなるパイパティローマ」
うちなあぐち
日本語


■うちなあぐち(琉球語)ぬ伝統表記

うちなあぐち(琉球語)ぬ表記え「おもろさうし」ぬばすから、平仮名とぅか漢字なかい書かってぃ、うぬ伝統や琉歌んでえ民謡んかい受ち()がっとおやびいん。日本語文字借とおるむんどぅんやれえ、うぬ表記ん日本語ぬ風儀(ふうじ)なかいさっとおるくとぅぬ分かやびいん。やくとぅ、うちなあぐちぬ表記ぬくとぅ、(はなし)するばすお、(んかし)からぬ風儀(ふうじ)がるじゅんにやるんでぃ(うま)あんでえないびらん。やしがまた、なあ、(のお)さんでえならんでぃ思ありいるばすお、当たい(めえ)ぬくとぅ、うりえ直ちん、()たさんでぃ(うみ)やびいん。

琉歌あ琉球んじ()まりたる、でえじな、そうらさる文学やいびいん。やしが、韻、()むぬ入り(ゆう)なかい、うぬ書ちい様が大和風儀(ふうじ)、けえ成とおしえ、分かやびいしが、うぬ入り要ぬ()えん民謡とぅかまでぃ、琉歌ぬ風儀なかい、あまくまなありい、大和風儀成とおしが、じゅんやれえ、うちなあぐちぬたみねえあびい様とぅ書ちい様や、(てぃい)ちなしいびちいやんでぃ思やびいん。

 

■長音ぬ棒引ち書ちいや「方言書ちい」

今ぬうちなあぐち(琉球語)ぬ書ちい様や(んかし)からぬ書ちい様ぬ、あいがなあ、(うし)えらってぃ()ゃる歴史んあてぃ、なあ()()い、けえ成とおやびいん。かわてぃ、長音書ちいぬ(くじ)りがな崩りてぃやまちりとおしえ、ちゃっさきいぬ(ちゅ)なかい、くじらってぃん、()まびいんでぃ思みてぃ、言やびいしが、ちゃぬあたいうちなあぐちぬくとぅ、考えとおがんでぃ言るくとぅとぅ(てぃい)ち成てえ、()らんがあらんでぃ思やびいん。

言いどぅんしえ、「方言」んでぃ考えいねえ、書ちい様ん、うぬ(あたい)どぅやい、うちなあぐち(独立語)んでぃ考えいねえ、書ちい様までぃ、「方言」やかがんじゅうらさんでえないびらん。

標準語とぅ方言や、使え分きらっとおいびいん。標準語お、国語とぅさあい、公用語とぅさあい、あるっさぬ文(文学、論文、法文、うぬ他ぬ実用文)、書ちゆうさんでえ、成らんあい、辞書ん作くてぃ、文法ん、ちゃんとぅさんでえないびらん。やしが、方言が国語ぬ代わい、成いしえ、(かじ)りぬあてぃ、じゅんに、(ちむ)(にん)ぬん入りてぃ、うぬ代わいすぬ、肝合や()えやびらん。あんし、うぬ書ちい様や国語とぅ違とおる(とぅくる)ぬ分かれえ()むんでぃち、音中心びけんどぅ成てぃ、文書ちぬくとお考えらってえ無えやびらん。やくとぅ、方言研究ん、いいくる、音韻論なかい、さりいる風儀(ふうじ)、けえ成いびいん。

平安時代からあたんでぃ言やっとおる長音ぬ棒引ち書ちい様や、日本語ぬ正書法とぅしえ、(なま)ちきてぃ使(ちか)あらってえねえやびらん。やしが、他府県ぬ方言書ちい様んじえ、ましさってぃ使あらっとおやびいん。棒引ち表記やれえ、オオがやらオウがやら分かやびらん。くぬような(うとぅ)びけえん、考えとおる大概小(てえげえぐゎあ)ぬ書ちい様や、言語体系、組み立てぃてぃ行かんでぃ言る考えぬ足りやびらん。うんぐとぅやれえ、言語教育んかい、かがなとおる教師たあや、大概(てえげえ)、とぅぬうまぬうし、生徒(しいとぅん)ちゃあんかいや、「方言言葉」どぅやるんでぃ言る考え、習あするむぬやいびん。習あし易っさるくとぅ、考えてぃ、あん成たがらん分かやびらんしが、(けえ)てえ、習あしがたさるむのお、あいびらんがあら。あんしから、(たあ)ん、「()が『方言』や、うぬあたい(ぐゎあ)どぅやとおてぃ」んでぃ言ち、「方言」んかいや、なあふぃのお、(ぬず)まんないぬくとぅんかい成いしえ、でえじな、(ちむ)がかいやいびいん。

後ぬ項んじ、棒引ち書ちい、くめえきてぃ調びてぃ、うぬ問題やるとぅくる書ちぇえいびいん。

 

 

 

■うちなあぐちとぅ日本語お別ぬ言語(似ちん別言語)

他府県ぬ方言とぅうちなあぐちとお、日本語(標準語)とぅぬ差異が同ぬむんあらんくとお、うぬ二言語が、じまま、あい変わとおるくとぅから、(あち)らかやいびいん(鹿児島語とぅか東北ぬケセン語とぅか、内地ぬ地方語んかいん標準語とお、じまま、あい変わとおる言語ぬあいびいん)。『沖縄語辞典』(国立国語研究所)なかい「両方言(本土方言と琉球方言)の差異はきわめて大きく、琉球方言に属するどの方言も、本土のどの方言ともまったく通じないほどである。琉球方言の分布する最北端は奄美大島の北端であるが、その北の海には大きな言語の谷が走っていると言えるのである」んでぃぬ記述ぬあやびいん。まるふぃじいぬ言葉あ変わてぃ、日本語とぅぬ話やむさっとぅ通じやびらん。ちゃぬようなシマ言葉やてぃん通じらんないねえ、別ぬ言語とぅさあに(あちけ)えらんでならんはじやいびいん。うちなあぐちえ通じらんびけんやあいびらん、語ぬ活用はじみ、日本語ぬ文法とお、当たらんとぅくるぬまんでぃ、直訳(とぅんじい)ならん慣用句ん、まんどおやびいん。うぬあたいぬ違いぬ在たんてえまん、日本語ぬ方言んでぃ扱えゆしえ、どぅくやいびいん。祖語が、同ぬむんやんでぃ言るうっぴなかい、うちなあぐちえ日本語ぬ方言やんでぃ言る理屈ぬ通いぬむんやれえ、ラテン系ぬ言語(くとぅば)(イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語など)あ互えに方言やい、ゲルマン系語やるドイツ語とぅか英語、オランダ語とぅかん互えに方言どぅやいびいる。同ぬぐとぅロシア語系(ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語てぃやい)ん互えに方言どぅやいびいる。言葉が、ちゃっさ、違てぃん、いふぃやてぃん似ちょおれえ、どぅくやしが韓国語とぅ日本語とお、うりんまた、方言同士やるくとぅんかい成いびいん。ある共同体ぬ言語が他ぬ言語ぬ方言やみあらにんでぃ()るくとぅ、()わみゆるむんや()えやびらん。やしが、まるふぃいじいぬ話ぬ通じいみ、通じらにんでぃ言るくとぅどぅ、うぬ決わみぐとぅぬ目安とぅさんでえ成らのおあいびらに。

池宮正治氏や、「沖縄の日常生活では、沖縄語(ウチナーグチ)と大和語(ヤマトグチ)に分けて意識されており、両方言の差異が方言としてなのか言語としての差異なのかについて決定的な指標はなく、他の民族意識などの要素を考慮することも必要であろう」(『沖縄資料集成』一九七五年、グリーンライフ社)んでぃち言みそうちょおいびいん。

 

■明治政府からぬ同化政策ぬ仕い成し

列強ぬアジアんかい()かてぃ来ゅうるなあか、うぬばすぬ明治政府や、うにいまでぃぬ琉球ぬ旧慣温存策、うっ()えらち、武力なかい琉球国(藩)(ふる)ぶち、同化政策(いす)じゃびたん。琉球まじり、日本語なかい、(うす)ゆるたみなかい、内地から教員()ち、「普通語奨励運動」さびたん。やてぃん、大和人ぬ、いちゃっさ、うみはまてぃんうちなあぐちが日本語んかい取てぃ替わゆるくとお()えやびらんたん。やしが、戦後、沖縄が日本から、引ちあかさってぃ、米軍なかい(うさ)さみらりいるくとぅんかい成てぃからあ、琉球人ぬ、日本(たる)がきゆる胆持(ちむむ)ちぬ、大ぎくなやびてぃ、(どぅう)なあくる、うりしい成しするたみ、立ちあがたるしいじやいびいん。

 

■「方言」容認や同化政策ぬ仕いなし

アメリカぬ、うすまさる軍事力とぅ彼等(うったあ)人抑(ちゅうえ)えとおんねえぬ軍政、前成(めえな)ち、ちゃあん成らんくとぅ、思い知らさったる()が沖縄人や大和人とぅ一ち成ゆしがる後々(あとぅあとぅ)ぬ沖縄ぬたみ成ゆんでぃる考えやびたる。あんし、大和人ぬ、しいゆうさんたる同化政策、うぬまま受ち()じゃあい、うちなあぐち=「方言」撲滅運動、教育現場んじ、いっそうから、しい(ちじ)きてぃ、()ゃるばすやいびいん。(なま)、うちなあぐち、「日本語ぬ方言」んでぃ言ちん、(たあ)ん異風なあ思ゆる人お、よねえ、居いびらん。うったあんかい、まあん人やがんでぃ(とぅ)ういねえ、なあ、琉球人んでぃ(いれ)えゆる人お、居いびらん。

やしが、沖縄人ゆ大和慣い、しみたしえ、薩摩なかい、しじみらったるばすから、あちらし()えさあし、みみがってぃ、抑えらってぃ来ゃる歴史(ゆい)やるくとぅ、(わし)りてえないびらん。

やくとぅどぅ、今、いがろうや、うちなあぐちえ日本語ぬ方言やあらんでぃ、言ちょおるたっぺえやいびいん。「日本語ぬ方言」やるくとぅ、受き取いるくとお、沖縄人んでぃちぬ(ふく)()てぃてぃ、自、かじらあしゃしみいるくとぅやいびいん。うぬくとお、琉球語撲滅運動ぬ続きやんでぃ考えゆしえ我びけんどぅやいびいら。

大和(むどぅ)いや米軍支配から(ぬが)あらりいる(ちむ)むええん、さんみんかい入っちょおたるはじやいびいしが、今ちきてぃ沖縄や米軍ぬ(んぶ)しから逃あらさってえ居いびらん。くりがる琉球人ぬ大和化ぬ代わいやんでぃ言いねえ(ちむ)ん胆ないびらん。

 

■棒引ち書ちいぬ問題点

うちなあぐちえ独立(どぅうた)っちいそおる言葉(くとぅば)とうさあに、あるっさぬ書ち(むん)(小説とぅかぬ文学、論文、法文、うぬ他)ぬ書ちい様ん、ちゃんとぅ、あらんでえないびらん。ただ、日本語とぅあびい様ぬ違とおるくとぅびけえん、表わしいねえ()むんでぃ()る方言ぬあり様とお、違らち、ありんくりん吟味(じんみ)さんでえ、ないびらん。国語んかい(ぬず)まっとおる、あるっさぬ機能ん要件ぬん、()っち、言語とぅさあい、ちゃんとぅ、立てぃてぃ、いかんでえ、じゅんにぬ(どぅう)なあたあびけんぬ言葉とお、成らんばすやいびいん。

 

」や何ぬ音ん持たん記号どぅやる

「ー」や音持たん記号どぅやいびいしが、「あちゃー(明日は)」んでぃ書ちいや、助詞「ー」んでぃ言る単語ぬあるくとぅんかい成いびいん。また、「うとーけー(居ておけ)」や「うと」とぅ「ーけー」から成いびいくとう、「ー」ぬ頭成ゆる「ーけー」んでぃ言る単語ぬあるくとぅんかい成いびいん。くったあ辞典んじえ、如何(ちゃあ)しが表わさやびいら。文法説明や、ちゃあがさびいら。「あちゃあ」「うとおけえ」んでぃ書ちゅれえ、(ぬう)ん、(ちけ)()えやびらなそおてぃ。

 

」や崩り音(略音)、母音表記え昔音んかい近さんあい、語ぬ対応・由来とぅかあ伝統表記がる分かいやっさる

「かみゆん(ちぶる)んかい()しゆん)」や、田舎ぬあまくまんじえ「かみいん」んでぃ成ゆん。くり、「かみーん」んでぃ書ちゅしやか、「かみいん」んでぃ書ちゅしがる「かみゆん」とぅぬ比較(ふぃっちょう)ん成ゆい、「ゆ」が「い」んかい変わたるくとぅぬ分かやびいん。同ぬ(たとぅ)いや、まんどおいびいん。

「なとーん」や「成てぃ居ゆん」ぬ、「さーゆん」や「触わゆん」ぬ(くじ)り音やいびいん。やくとぅ、うったあや「成とおん」「触あゆん」がる、元ぬ音んかい近さいびいる。また、「うちなあ」や、「おもろさうし」んじえ、「おきなわ、あきなわ」んでぃ書かってぃ、古書んかあぬ「阿児奈波」や、大概(てえげえ)、「うちなは」んでぃ胆当(ちむあ)てぃげえぬ成いびいん。あんそおる表記から、「うちなあ」がる、元音んでえ元意味んかい近さあねえんがやあんでぃ思やびいん。あんし、「うちなあ」や「ウチナー」でぃちん「ウ・チ・ナ・ア」でぃちん読むるくとぅぬ成いびいん。かんし長音ぬ母音書ちいや今ぬ世ぬ長音表示とぅしん、原音んかい近さる書ちい様とぅしん、成ゆい一石二鳥的やいびいん。

 

」や、うぬばすうぬばすぬ伸び音、表わする記号どぅやる

「おい(感嘆詞)」や辞典んかい、あいびいしが「おーい」や()えやびらん。「おーい」ぬ「ー」が、うぬばすぬ、今一時(なまいっとぅちゃ)ぬ伸び音やくとぅやいびいん。(とぅう)さんかい居る母、大声(うふぐぃい)なかい()ぶるばすお、「あんまあー」んでぃ成いびいしが、くり、「あんまーー」んでぃしいねえ、「ー」が二ち(がさ)にんかい成いびいん。音ぬ組成(ぐうな)しぬ都合(ちごう)なかい「ー」ゆ()使(ちか)ゆる謡歌とぅか、会話ぬ脚本んじえ、(たあ)(がさ)にぬ「ー」、使らんでえならんないびいん。

 

他ぬ記号んでえ漢数字とぅ、ばっぺえ易っさん

「にほのお(日本は)」んでぃ言し、「日本ー」んでぃ書ちいや、「ー」が横書ちいぬばすお、漢字ぬ「一」とぅ似ちょおくとぅ、ルビ付きらんでえ、「にほんいち」がやら、「にほのー」がやら、ばっぺえやっさいびいん。「─随書琉球伝─」「在位七二四─七四八」「背景─古い社会組織」ねえ、タイトル、乃至、即ち記号等とぅしん使あらっとおる棒線ぬんかいん、ゆう似ちょおい、書体にゆてえ、いいくる(てぃい)ちやいびいん。「方言意識」とぅ「独立言語意識」ぬ差異がる問題解決ぬ分かり道やいびいん。あんせえ「方言」どぅやるむんでぃぬ考えせえ、中ばうとおてぃ、うっちゃん投ぎゆるくとぅんかい、けえ成いびいん。真胆(まじむ)なかい、うちなあぐち散文(創作活動合あち)さんでえならんでぃぬ胆持ちぬあいどぅんせえ、うぬ解決ぬ仕様や、しぐ(すば)んかいあいびいん。

 

■あるっさぬ散文、美らく書ちゆうすんねえし

独立っちいそおる言語お、あるっさぬ散文、書ちゆうすんねえ成らんでならんくとお、うんぬきたる通いやいびいん。学校んじえ、文法ん習あさんでえ成いびらん。辞典ぬん作てぃ、(ふぃる)みらんでえ成いびらん。

論文、法文んでえぬ書ちい様や、大概(てえげえ)や地ぬ文どうやいびいしが、会話文とぅ、ばっぺえ易っさる()ばし音記号ぬ、ちゃっさきいなあ、使あらっとおるむんやれえ、()まあや、うぬはごうさんかい、にりゆるはじやいびいん。読まあぬ(ちむ)うらあきゆる文(美的表記)とお、じまま離りてぃ、念入(にんい)ってぃうちなあぐちなかい文、書かなんでぃ言る人ぬ(うふ)く成いがさびいら。ただぬ「方言」とぅさあい、習ゆるうっぴやれえ、読まあや、うぬあたいどぅ胆お入りやびいる。やくとぅ、(はじ)みからうちなあぐちゆ「方言」とぅさあい(あちけ)いねえ、後々(あとぅあとぅ)までぃ、うぬ(みい)や「方言」とぅさあい、うぬままあ、けえ成ゆるはじやいびいん。後々んじ、(のお)しいねえ()むんでぃ言る考えやらあ、後ぬうずみ、直しゆうする人ぬ()じてぃ()ゅうし、(たる)がきらんでえ、成らんないびいん。うぬ胆成いねえ、成ゆるくとぅん、後々んかい回し回さびてぃ。今ぬ世代や、うぬあたいどぅやいびいがや。

 

■言語ぬ表音とぅ文字化

言葉あ音とぅさあいあるむぬやいびいしが、字や作らりいるむぬやいびいん。書かりいるくとぅにゆてぃ、言葉あ「音」から「文」んかい変わてぃ行ちゅるむんやんでぃん言ちん()まびいん。音、文字化するばす、うぬ音が字んかい合あち、作らりいるくとぅぬあるくとぅん、当たい(めえ)ぬくとぅ、あいびいん。やしが、うぬくとぅたんきてえ、前あがちえ成いびらん。長えが間なかい、また、あるばすねえ、政治考えなかい、作らってぃ来ゃあに、「綴り字発音化」んでぃ言る、いふぇ、ましえあらん所んあいがなあん、大言語(うふくとぅば)あ、いいくる、あんそおる問題、解決し来ゃるむぬやくとぅどぅ、今ねえし、大概や得いらっとおるむぬやいびいん。ちゃんとぅ成とおる言語ぬ書ちい様や、語ぬ成い立ちとぅかん考えてぃ、ああきらんねえし、胆入りらっとおる書ちい様成とおくとぅやいびいん。あんやいびいくとぅ、音とぅ綴ぬ、いふぃなあ、(はん)でぃとおるくとぅぬ(うふ)さいびいん。うりがる言語ぬ文字化やいびいる。文字化や音ゆ(くぃ)いゆるむぬどぅやいびいる。あんしから、うぬ成てえねえん所お、大言語うとおてえ、長えが間なかい、得いらってぃ来ゃるむぬやいびん。

 

■棒引ち書ちいやじんぶん奪ゆるくとぅ・国語準用がる簡便

(なま)沖縄(うちなあ)んじえ、日本語教育がる当たい前ぬくとぅやしえ、じゅんやいびいん。(むる)ぬ沖縄ぬ(わらび)んちゃあや日本語習てぃ、日本語ぬ書ちい様ぬ()わみぐとぅん、棒引ち記号ぬ決わみぐとぅん、またうぬ成てえねん所んましやる所ん知っちょおいびいん。「棒引ちぬ表記」やうちなあぐちぬ文法体系んかい(ふた)そおるむぬやいびいん。童んちゃあや棒引ちなかい(ちち)でぃ(くゎっくゎ)さっとおるくとぅぬあし、よねえ分からんはじやいびいん。棒引ち表記がる分かい易っさんでぃぬ考えや、童んちゃあぬじんぶんぬ足らあんでぃ思いとおるむぬおあいびらんがあら。日本語ぬ字借とおるむんやれえ、うぬ書ちい様ん(までぃ)、借いしがる、(けえ)てえ、どぅう易っさいびいる。うちなあぐちぬ仕組ん、ちゃんとぅ、分かりわる、じゅんにぬ沖縄人ぬ(ふく)い、取い(むどぅ)するくとぅん成いのお、あいびんがあら。

棒引ち表記、(しし)みゆるくとお、あるっさぬ機能持っちょおる言語とぅさあい、ちゃんとぅ成するくとぅゆうっちゃん投ぎゆるむのお、あいびらんがあら。うちなあぐちが棒引ち書ちいから(ぬが)ありらん(かじ)り、「方言」ぬ分とぅし、胆ふじゅるくとぅんかい成いびいん。


■うちなあぐち(琉球語)の伝統表記

うちなあぐち(琉球語)の表記は「おもろさうし」以来、平仮名や漢字で表記され、その伝統は琉歌や民謡に引き継がれています。日本語文字を借用している以上、その表記法も日本語に準じたものになっていることが認められます。したがって、うちなあぐちの表記を論じる場合、伝統的(歴史的)表記が慣習表記(標準表記に代わるもの)として位置付けられるべきです。しかし、時代の要請があれば表記が見直されるべきであることは言うまでもありません。

琉歌は琉球が産んだ水準の高い文学です。しかし、韻を踏む必要等から琉歌の表記が和風となっているのは、うなずけるとしても、その必要のない民謡まで、その影響で一部和風表記となっており、やはり、うちなあぐちのためには言文一致表記とすべきだと思います。

■長音の棒引き表記は「方言表記」

現在のうちなあぐち(琉球語)表記は伝統的表記にもかかわらず、その後の抑圧の歴史もあり、確立されるに至らず、混乱しています。とくに長音表記をめぐる混乱は、多くのご批判を覚悟して敢えて言うならうちなあぐちに対する認識の程度に連動しているようにも思えます。

つまり、「方言」と認識するならその程度の表記に止まり、うちなあぐち(独立語)と認識するなら、その表記には方言の役割以上のものが求められるのです。

標準語と方言は使い分けされています。標準語は国語として公用語として、全ての散文(文学、論文、法文、その他の実用文)に対応しなければならず、辞書、文法を完備しなければなりません。しかし、方言が国語を代行できる部分は限られており、全面的・本格的に代行するつもりはありません。したがって、その表記は国語との違いを強調できる音韻中心であり、散文活動を想定しない程度にならざるを得ません。方言研究もいきおい、音韻論が主体となってしまう傾向には、そのような背景があると思われます。

平安時代に現われたと言われる長音の棒引き表記は、日本語の正書法としては今日では用いられていませんが、日本の他府県の方言表記では好んで使用されています。棒引き表記では、オオかオウなのかわかりません。このような音韻要素だけを考慮した簡便な表記は、言語体系を確立しようとする観点が欠落したものです。言語教育に携わったことのある教師の多くは戸惑いをみせ、生徒達には「方言」としての意識を植え付けるものとなるでしょう。教え易さを考慮したかもしれない棒引き表記はむしろ教えにくいシロモノです。うちなあぐちが「方言」として定着してしまえば、誰も「方言」にはそれ以上のものを求めなくなります。

後項で棒引き表記を検証し、その問題点を挙げてみます。

■うちなあぐちと日本語は別の言語(似て非なる言語)

大方の他府県の方言とうちなあぐちでは日本語(標準語)との差異が同じレベルでないことは、その著しさからあきらかです。(勿論、鹿児島語や東北のケセン語等、本土の地方語にも標準語と著しく異なる言語があります)。『沖縄語辞典』(国立国語研究所)に「両方言(本土方言と琉球方言)の差異はきわめて大きく、琉球方言に属するどの方言も、本土のどの方言ともまったく通じないほどである。琉球方言の分布する最北端は奄美大島の北端であるが、その北の海には大きな言語の谷が走っていると言えるのである」という記述があります。日常語彙は異なり、日本語との会話は成立しません。どんな地方語でも通じなくなったら別の言語として扱われるべきです。うちなあぐちは通じないばかりか、語の活用をはじめ、日本語の文法にあてはまらないところが多く、直訳できない慣用句も多いです。これほどの違いがありながら、なお、日本語の方言として扱うには無理があります。祖語が同じだと言う理由だけで、うちなあぐちが日本語の方言だという理屈が成り立つなら、ラテン系の言語(イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語など)は互いに方言であり、ゲルマン系語であるドイツ語や英語、オランダ語なども互いに方言です。同じようにロシア語系(ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語など)も互いに方言です。極論ですが、差異の程度が度外視されてもよいなら、韓国語と日本語とは互いに方言であるということにもなってしまいます。ある共同体の言語が他の言語の方言であるかどうかは明確な基準がある訳ではありません。しかし、少なくとも日常会話が成立するかどうかを目安とすべきでしょう。

池宮正治氏は、「沖縄の日常生活では、沖縄語(ウチナーグチ)と大和語(ヤマトグチ)に分けて意識されており、両方言の差異が方言としてなのか言語としての差異なのかについて決定的な指標はなく、他の民族意識などの要素を考慮することも必要であろう」(『沖縄資料集成』一九七五年、グリーンライフ社)と述べています。

■明治政府以来の同化政策の完成

列強がアジア進出するなか、時の明治政府はそれまでの琉球に対する旧慣温存策を一変し、武力で琉球国(藩)を解体し、同化政策を急ぎます。琉球を日本語化するために、内地からの募集教員を動員して「普通語奨励運動」を展開します。しかし、大和人の音頭ではうちなあぐちが日本語に取って替わることはありませんでした。だが、戦後、沖縄が日本から切り離され、米軍統治下に置かれることになってからは、琉球人の日本志向が高まり、琉球人の大和化は琉球人自身の手によって、その完成へと向かったのです。

■「方言」容認は同化政策の完成

アメリカの圧倒的な軍事力と非人道的な軍政を目のあたりにして、無力感を思い知らされた我が沖縄人は大和人と連帯することが将来の沖縄を救うことになると考えました。そして、大和人が成しえなかった同化政策を無条件に受け継ぎ、いまわしいうちなあぐち=「方言」撲滅運動を教育現場で徹底的に展開していくのです。今日、うちなあぐちを「日本語の方言」ということについて違和感を抱く人はほとんどいません。これが琉球人が自ら完成させた同化政策の結果です。彼らに何人かと問えば、もはや琉球人と答える人はいません。

しかし、沖縄人を大和化させた背景には薩摩による占領以来の琉球に対する苛めと差別が繰り返された歴史があることを忘れてはなりません。

忘れてはならないからこそ、今日、我々は、うちなあぐちは日本語の方言ではないと主張するのです。「日本語の方言」論を受け入れることは沖縄人としての誇りを捨て、自らを卑しめる行為に他なりません。そのことは琉球語撲滅運動の余波なのだと考えるのは筆者だけでしょうか。

本土復帰には米軍支配から逃れる期待も込められていました。しかし、今日に至るまで沖縄は米軍の重圧から解放されていません。これが琉球人の大和化の代償だとしたら、言葉を失うのです。

■棒引き表記の問題点

うちなあぐちは独立した言語にふさわしく、日本語と対等の言語として、あらゆる散文(小説などの文学、論文、法文、他)表記に耐え得るものでなくてはなりません。それは単に日本語との音の違いだけ表現できれば良いという方言のレベルを超え、総合的に検討されなければなりません。国語に求められる全ての機能要件を備え、言語として確立されなければ本当のアイデンティティーを取り戻せないのです。

 」は特定の発音を持たない記号である

「ー」は発音のない記号であるにもかかわらず、「あちゃー(明日は)」と表記すれば、助詞「ー」という単語が存在することになります。また、「うとーけー(居ておけ)」は「うと」と「ーけー」から成るから、「ー」を語頭とする「ーけー」という単語が有ることになります。これらを辞典ではどう表わすのでしょうか。文法説明をどうするのでしょうか。「あちゃあ」「うとおけえ」と表記するなら何ら問題はないのです。

 」は崩れ音(略音)、母音表記が古い発音に近く、語の対応・由来などは伝統表記が分かりやすい

「かみゆん(頭に乗せる)」は一部地方では「かみいん」となります。これを「かみーん」と表記するより、「かみいん」の方が「かみゆん」との対比ができ、「ゆ」が「い」に変化したのだと分かります。同様な例は多いのです。

また、「なとーん」は「成てぃ居ゆん」の、「さーゆん」は「触わゆん」の崩れ音です。したがって、それらは、「なとおん」「さあゆん」の方が、まだ、音の原形に近いのです。さらに「うちなあ」は、「おもろさうし」では「おきなわ、あきなわ」であり、また古書の「阿児奈波」は、概ね「うちなは」と推測できます。以上の表記から推測して、「うちなあ」の方が、より原音にも原意にも近いとも言えます。そして、「うちなあ」は「ウチナー」とも「ウ・チ・ナ・ア」とも読むことができます。このように長音の母音表示は今日的長音表示としても、原音・原意に近い表記としても、一石二鳥的に機能します。

 」は臨時的な伸ばし音を表わす記号である

「おい(感嘆詞)」は辞典にありますが「おーい」はありません。「おーい」の「ー」部分が臨時的な伸ばし音だからです。遠くに居る母を大声で呼んだら「あんまあー」となるが、これを「あんまーー」では「ー」が二重になります。音の組み合わせの都合から「ー」を良く使う謡歌、会話体が主体の脚本では、二重「ー」を使う場面があることになります。

 他の記号や漢数字と紛らわしい

「にほのお(日本は)」を「日本ー」と表記すると「ー」が、とくに横書きの場合には、漢字の「一」と似ているので、ルビを振らないと「にほんいち」なのか「にほのー」なのか紛らわしいです。また、「─随書琉球伝─」「在位七二四─七四八」「背景─古い社会組織」などのように、タイトル、乃至、即ち記号等として使われる棒線にもよく似ていますし、書体によってはほぼ同一です。何れにせよ、長い間、うちなあぐち散文に関わってくると、どうしても「ー」問題につきあたります。「方言意識」と「独立言語意識」の差異が問題解決の分かれ道です。どうせ「方言」という意識では、途中で投げ捨てることになります。本気でうちなあぐち散文(創作活動含む)に取り組もうとすれば、その解決方法はすぐ傍にあります。

■あらゆる散文に対応できる美しい表記を

独立した言語はあらゆる散文に対応できなければならないことは前述の通りです。学校では文法も教える必要があります。辞典も整備し、普及を図らなければなりません。

論文、法文などの表記はほとんどが地の文であるわけですが、会話文や紛らわしい臨時的伸ばし音記号が頻繁に使用されるのであれば、読者はその煩雑さに呆れるでしょう。読者の心を打つ感動的な文章(美的表記)とは程遠いものとなり、身を入れてうちなあぐちで文章を書こうとする人が増えるでしょうか。単なる「方言」として触れる程度しか、読者をひきつけないでしょう。うちなあぐちが「方言」として出発すれば、内容的には「方言」の域を出ず、「方言」として定着してしまうでしょう。面倒くさいから、後で見直せば良いと考えるのであれば、結局、見直しする人の出現に頼らなければなりません。その気になれば、今できることを、後に譲る。この世代のやれる限界なのでしょうか。

■言語の表音と文字化

言語は音として存在するものですが、文字は作られるものです。書かれることによって言語は「音」から「文」へ進化するのだとも言えます。音が文字化される場合、音自体が文字に合わせて変化することは多いに有り得ます。しかし、そのことを危惧していては、言語として確立され得ないのです。長い間には時に政治的に加工され、「綴り字発音化」という否定的な側面を有しながらも、メジャーな言語は多かれ少なかれ、そうした問題を克服してきたからこそ、今日、圧倒的な市民権を得ているのです。確立された言語の表記は文法、語の構成などを考慮し、矛盾がないように配慮された表記になっているからです。従って、発音と綴りがずれていることが多いのです。これが言語の文字化です。文字化は音を超えるのです。そして、このずれの不具合はメジャーな言語では長い年月をかけて克服されているのです。

■棒引き表記は理解力を奪う・国語準用こそ簡便

現代の沖縄で日本語教育が定着していることは紛れもない事実です。全ての沖縄の子供達は日本語を習得し、日本語における表記のルールも棒引きのルールもその不具合も長所も理解できます。「棒引き表記」はうちなあぐちの文法体系に蓋をしています。子供達は棒引きに包み隠された意味を理解するのに苦労するでしょう。棒引き表記の方が分かりやすいと考えるのは、子供達の理解力を低く見積もるものです。日本語の文字を借用する以上、その表記ルールも準用した方が簡便さという意味で勝るでしょう。うちなあぐちの体系化を図ってこそ、真の沖縄人としての自信と誇りを取り戻せるのではないでしょうか。

棒引き表記を進めることはその総合機能を持つ言語確立の取り組みを放棄するものではないのでしょうか。うちなあぐちが棒引き表記から脱却しない限り、「方言」の地位に止まることを意味します。